「長篠の合戦」?メイビー…24

姉川の戦いの後、浅井朝倉両氏は対織田信長で結束を固めた。この時期さすがに織田家に不安の声が出始めた。上洛のあと京での散財、正親町天皇と足利義昭将軍の体裁を繕うための散財は織田家の人々は歴史的快挙の高揚感の中で歓迎されていた。
しかし、連戦そして遠征と京での滞在、結果として得られたものは従前よりも一層増した不安定な状況という状態で、自軍の経済状況についての不安を感じ始めていた。
常識で考えるならこれ程の戦費が尾張の一大名に賄える筈が無い、美濃を攻略した永禄十年(1568)の翌年に上洛、その翌年に伊勢を支配、確かに領土は広がったのだが、その実りを手に入れる為の治世に手が廻らないのが現状だ。
そして、その翌年の姉川での戦があった。
織田家にこれ程の体力、資金力があるとは考えられなかった。
この時期に信長が本格的に有力な大名からの攻撃を受けなかったのはそんな推測からであった。後に毛利家の僧安国寺恵瓊が予言をしたように伝えられているが、恵瓊でなくともこれ程の無計画な信長の行動を見れば、二・三年もすれば高転びに転ぶと誰もが思っていたことである。
もう一つ言うならば、さりとてはの人、当時の木下秀吉こそまさに異色であった。出身が百姓で育ちが商人という経歴の武士は数少ない、粗野で乱暴であることが武士であるが秀吉はそうではなかった。
秀吉が歴史に登場し異才を放つのはたぶんこの時期の京であったに違いない。
腰が低く、辛抱強い、そして殺気が無く、愛嬌がある。
京の公家たちが求めていた人物であり、織田家の誰よりも公家にある意味近い人間であった。
公家はプライドが高く近付き難いと誰もが倦厭していたが、秀吉は彼らが懐古主義的ではあるが人懐っこい一面を見抜いていたのかもしれない。
プライドをいうなら武士の方にあったのかもしれない、公家に対するコンプレックスが不必要な威嚇を伴う威厳をひけらかしていたようだ。
それを教えてくれたのは初対面で将棋の駒を持参で秀吉目当てにやって来た気さくな老人であった。
「おもしろい遊びが流行っている。教えてやろうと思って来てやった。囲碁より面白いぞ、きっとこれから流行っていくぞ」
 話を聞いていると見かけよりは若いのかと思い聞いてみると、やはり六十を越えているようだ。
「碁石と違って駒そのものに性格というか能力があって、打ち手の性格で駒の値打ちが変わってくる」
 公家の世界では偉い人だと本人は言っている。
 確かに将棋という遊びは面白いと思ったが山科言継(ときつぐ)という老人は勝ち負けには淡白で白熱の戦いにはならなかった。
 但しこの山科言継という老人の人間関係は今後の秀吉の値打ちを大きく変化させることになる。
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